リポート

H17年12月16日(金)

平野 謙総合コーチ ありがとうございました!!

 今季を最後に、住金鹿島硬式野球部を退部する平野謙 総合コーチ。 平成15年に千葉ロッテマリーンズから当所硬式野球部へコーチとして入部され、以来3年間、元プロ野球で大活躍されていた選手ということもあり、チームの意識改革、技術力のアップに大きく貢献して下さいました。 2年目からはベンチに入り総合コーチとしてご功労頂き、平成15年・17年には都市対抗本大会に出場、平成16年には18年ぶりの日本選手権本大会出場と、多大な功績をあげて下さいました。  当野球部退部後は、北海道日本ハムファイターズ1軍外野守備・走塁コーチとしてプロ野球界に復帰されます。

≪プロフィール≫
右投両打
ポジション:外野手(プロ入り当時は投手)
生年月日:昭和30年6月20日生まれ
出身地:愛知県
出身校:犬山高 → 名古屋商科大

 昭和53年にドラフト外で中日ドラゴンズに入団。
入団当時は投手としての入団であったが、その強肩と走力ですぐに外野にコンバートされ1番・2番打者として活躍した。
「バントの達人」と呼ばれるほどの職人芸で昭和57年には当時の最高記録51犠打をマークし、チームの優勝に大きく貢献した。(通算では451犠打を記録している。)
昭和60年に初の3割をマークし、翌年には盗塁48個で盗塁王をとった。
 昭和63年にトレードで西武ライオンズに移籍。移籍後は森祇晶監督に重用され、スイッチヒッター・2番ライトとして、巧打・俊足・好守備で不動のレギュラーを確立。6年連続ゴールデングラブ賞を受賞するなど西武ライオンズの黄金時代を支える大活躍をした。
平成6年千葉ロッテマリーンズに移籍。
翌平成7年現役を引退しコーチに就任する。
平成14年千葉ロッテマリーンズを退団し、平成15年住友金属鹿島硬式野球部へ入部されコーチとして尽力された。

<平野さんよりご挨拶の言葉>

 3年間という短い間ではありましたが、後援会・並びに地域の皆様には非常に温かい御支援・御声援を頂きありがとうございました。
選手達には、自分達の力を信じて練習を重ね、日本一目指して頑張って頂きたい。 本当にありがとうございました。

【石川副所長・平野さん・三木所長・松野部長】
 14日(水)、住友金属工業且ュ島製鉄所の三木所長に、平野さんが挨拶においでになりました。
三木所長からの
『日本ハムに行った後もご活躍を期待しております。私は生粋の阪神ファンですが(笑)日本シリーズで日ハムと阪神が日本一を争えるように頑張って下さい!』
との話に平野さんは、
『阪神は分かりませんが(笑)日本ハムの日本一を目指して頑張ります。でも、正直な話、住金鹿島が日本一になる方が早いと思います(笑)』
と返事をされていました。そして、
『来年度も有望な新人が入ってきますし、新聞等で活躍を見守っています。』
と心のこもったお言葉を頂きました。

また、この日は労働組合執行部による送別の昼食会が催され、多くの方と談笑を交わしながら昼食会を楽しまれました。

【組合玄関前にて】


≪ 鹿島製鉄所 石川副所長(元硬式野球部長・現後援会長)からのエッセイ ≫

 プロで活躍した有名な方なのでアマチュアのこちらを見下すような人かもしれないと思いながら、コーチをお願いするために平野さんと初めて会ったのは3年前のことである。
会ってみれば、大変気さくで逆に気を遣ってくれるいい人であった。この人なら、鹿島の硬式野球部をレベルアップさせるための指導者に適任だと思った。

 負けず嫌いな人である。野球・ゴルフ・パチンコその他全て負けるのが嫌い。3年前の東北大会で試合に負けた後、ベンチ裏で私が選手たちに「ご苦労さん」と挨拶したが、その帰りに仙台駅のそば屋で、いたわるのもいいが、負けた時は「もっと怒れ」とご指導頂いた。

 最初の年の日立との試合の前日夕食後、平野さんが高浦選手に今から素振りのチェックをするから駐車場に来いと言った。高浦選手が「えっ」といった顔をすると、「いやか」と聞いて「やります」という返事で、駐車場での夜の素振りが始まった。プロの目で、熱心にたくさんの指導をして頂いた。選手たちにとっては、財産になった。平野さん、ありがとうございます。

 平野さんがロッテの2軍監督時代の選手たちが活躍してロッテは日本一になった。
先週の片山前マネージャーの結婚披露宴に、ロッテの里崎捕手が出席した。里崎捕手が、やはり出席していた平野さんに自分を鍛えてもらった御礼の挨拶をした。

 来年は、日本ハムで大活躍していただくことをお祈りします。どちらが先に日本一になるか競争ですね。

≪ 住友金属鹿島硬式野球部 中島監督から平野コーチへ≫

 平野コーチには3年間という短い間ではありましたが、大変お世話になりました。

 昨年よりベンチに入って頂き、都市対抗の予選敗退を共に経験した際、「お前らも悔しいだろうが、俺も本当に悔しい」と目を真っ赤にして勝負の難しさ、一球の怖さを選手達に叩き込んでくれました。夏 炎天下での練習でも一切手を抜かず、都市対抗の悔しさを常に忘れないよう選手達に渇を入れ続け、その年の日本選手権では18年ぶりに本大会に出場する事が出来ました。

 今年の都市対抗出場の際には選手以上にはしゃぎ回り、いつもはクールな平野コーチが泣きながら握手を求めて来てくれたことは今でも忘れる事ができません。

 プロの打撃・走塁・守備といった技術指導は勿論、私より10歳も年が上でありながら、選手や他のコーチの前では私を立てて下さり、ぶっきらぼうな言葉の中にも繊細な心配りで、選手と我々スタッフの距離を絶妙に保って頂き、わずか3年でしたがいろいろなことを学ばせて頂き、本当にありがとうございました。

これからプロのコーチとして復帰し、素晴らしい功績をあげられます事をお祈りしておりますと共に、住友金属鹿島をいつまでも温かく見守って頂ける事をお願い致します。



左:【中国のプロ野球チーム「天津ライオンズ」衣川選手にアドバイスを送る場面】
右:【今年の都市対抗1回戦においての選手に熱心に指導された一コマ】